匂い立つ記憶
やない ももこ
雨の日は、土や草木、アスファルトなどの匂いが普段よりも増して強く感じられる。「雨の匂いがする」とよく言うけれど、それは雨そのものの匂いではない。晴れの日には感じることのない、気にも留めない、または忘れ去られてしまったあらゆるものたちが雨に濡れることで、その存在を主張するかのように匂い立つのが雨の匂いなのだ。
また、匂いと記憶は密接に関わっている。わたしは、雨の日にはどうしても子供の頃に通学で通った田んぼ道の土臭さや稲の少し乾いたような青々とした匂いを雨の匂いから感じ取ってしまい、鼻の奥がツンとなる。そんな風に、匂いは記憶を浮かび上がらせる。
ツァイ・ミンリャン「楽日」は、閉館を迎える映画館の最後の日を描いた映画である。
降りしきる雨が、もう何年もの時が経過したような寂れた映画館の建物を打ち付けて音を立てている。大きなスクリーンと数百人が入れそうなだだっ広い座席がある様子からすると、昔はかなりの賑わいをみせていたらしいことが見て取れる。だが、いまは客が2人、3人いるだけだ。人もまばらな劇場内に入り込んだしっとりとした雨の湿気によって匂い立つこの映画館の寂れた匂いはスクリーンの外側で観ているわたしたちの元まで漂ってくる。だから、わたしはこの映画を見ていると、観客としてこの映画を傍観しているのではなく、この映画館の客としてそこにいるという感覚になる。つまり、わたしもまたこの映画館の終わりに立ち会っているひとりなのだと。
劇場内。ひとりの初老男性が映画をみつめている。目に浮かべる涙は、郷愁をはらんでいるように見える。終演後、彼が外で佇んでいると、同じく初老男性が「先生」と呼びながら近づいてくる。彼の手にはまだ幼い男の子の手がしっかりと繋がれている。先生と呼ばれるこの男性はおそらく昔、映画監督か俳優だったのだろう。そして、もうひとりの男性もまた映画にたずさわった人間なのかもしれない。
「誰も映画を見ないね」
「誰も我々を覚えていない」
少しの笑みを受かべながらふたりはこう言葉を交わした後、タバコをふかす。
タバコの煙のように、この映画館の存在も時の流れと共に人びとの記憶の中からふわりと消えていってしまうのだろうか。
映画館は、楽しいとか絶望とか嬉しいとか悲しいとか、わたしたちの純粋な感情を真摯に受け止めてくれる懐の深い場所だ。だから、わたしたちは安心して、人には見せないような感情だってあらわにしてしまう。その感情が、映画館には人の数だけシミのように染み付いて、ずっとそこにある。つまり、この映画館から漂う匂いとは、建物の寂れた匂いではなく、映画館に染み付いた人びとの感情の匂いなのだ。それが雨によって匂い立ち、この映画の中に充満している。
そして、確かな感情がそこにあり続けるということは、わたしたちが「確かにそこにいた」という生の痕跡もまたそこにあり続けるということだ。だから、映画館がなくなってしまったら「確かにそこにいた」ことまでも消えていってしまうみたいで、とても悲しい。
生きていると、常に新しい記憶が生まれては積み重なり、どれだけ忘れたくないと思ったことでも平気で忘れてしまいそうになる。その忘れ去られそうな記憶たちが雨の日に、ふと亡霊のように匂いたち、わたしたちに訴えかける。だから、この世界に雨が降る限り、わたしたちは尊い記憶をなくさずにいられるのだと思う。そういう風に、この映画館の存在も、この映画館と人生を共にした人たちのことも、わたしはきっと覚えている。そして、記憶の中にあり続ける。この映画館の匂いと共に。