わたしたちに帰る場所はない
こばやしのぞみ
あたりまえだけど楽しいクリスマスばかりではない。わたしはクリスマスを正しく過ごせたことがない。クリスマスの日にはなるべく忙しく働いていたい。さみしいので。
イエジー・スコリモフスキの『ムーンライティング』で描かれるのは、1981年のロンドン、ある男の最低なクリスマスである。主人公ノヴァクは社長の別宅の内装工事をするために、妻アンナをポーランドに残し、仲間を三人連れてロンドンにやって来た。彼らは不法労働者であり、唯一英語を話せるノヴァクがリーダーとなる。初めこそスーパーマーケットに並ぶコカ・コーラにはしゃいだり、テレビでサッ カーを観戦したりと楽しげな雰囲気があったものの、工事は難航し、家を直してるんだか壊してるんだかわからないような状況に陥る。時間がない。金もない。とにかく働かなくてはならない。
そんな中ノヴァクは、スーパーで繰り返し万引きをする、近所の家の自転車や新聞を盗む、仲間に届いた家族からの手紙を勝手に読んで捨てる、終盤には祖国ポーランドで戒厳令が施行され、飛行機も電話も不通になっていることを隠したまま、 仲間たちにロンドンでの仕事を続けさせようとするなど、いろいろな悪事を重ねていく。悪さの中でもかなり卑怯な類いのものだ。
それでも、ノヴァクの表情や佇まいは、彼の持つ善良さをどことなく表出させている。例えば自転車(盗んだやつ、わざわざ色を塗り替えている)に乗って街を行くノヴァク。体つきに対して小さすぎる自転車に乗る姿が滑稽である。彼がのろのろ走り去ったあとの道には猫が遊んでいる、なんだか無駄に引き延ばされているようだなあと眺めていると、忘れ物をした彼がふらふら画面に戻ってくる。この長閑な気分が、ノヴァクの本質を象徴しているように思える。
ノヴァクは善良なのではなく、単に素直でのんきな人間であり、善悪についてなど考えていなかったのかも知れない。彼が万引きをしたのは単純に金を節約するためだし、ポーランドの現状を仲間たちに隠したのもとにかく彼らを働かせて、仕事を終わらせなければならないからである。つまり、彼は行き当たりばったりな行動を取っているだけで、そこに信念は存在しない。スコリモフスキの言葉で言えば、 彼は「システムの犠牲者」なのである。
ノヴァクが唯一持っている強いこだわり、それは妻アンナへの愛である。しかしそれも、ロンドンでの日々の中で変質してしまう。彼はポーランドに残った社長とアンナの関係を疑い始める。向かいの家の不倫する男女の姿にふたりを重ね合わせながらどんどん膨らんでいく彼の妄想は、クリスマスイブの夜に頂点に達する。この時点で、ノヴァクと仲間たちの関係はかなり悪くなっている。ノヴァクはクリスマスツリーを家に運び入れてはしゃいでいる三人を怒鳴りつけながらも、七面鳥を用意(もちろん万引き)して夜にはささやかなパーティを開くが、その席でも彼の孤立は明らかである。タイミングを逃して誰とも乾杯できずにおろおろする姿があまりにも悲しい。ひとり自分の部屋に戻って酒をあおっていると、壊れたテレビに映る写真のアンナが動き出し、微笑みかけてくる。彼は「やめろ!」と叫んで酒の瓶を投げつける。画面は割れ、同時に彼の心にも決定的なひびが入ってしまう。
帰る場所も心の拠り所もなくした人間に、クリスマスの喜びは訪れない。ノヴァクは教会で「告解はしたくありません。もう神は信じていない。自尊心を見出したくてここに来たのです」と言う。「あの連中を選んだのは、彼らが愚かだから。連中をコントロールできると思ったんですが、無理です。私は彼らより弱い」。
彼のどうしようもなさは、映画の終わりによってひとつの美しさへと昇華される。 しかしわたしの人生はもちろん映画ではないから、どうしようもないまま生活が続く。本当にがっかりする。それでもわたしはそのどうしようもなさを引き受けなければならない。そのために、この映画をくりかえし観る。