犬の愛について
こばやしのぞみ
映画における犬について考えるとき、まずレオス・カラックスの『ポンヌフの恋人』が思い浮かぶ。この映画に出てくる犬といえば、アレックスの放火を見ていた子供が連れているやつ、あとは鳴き声が何回か聞こえるくらいだけど、何よりアレックス本人が犬みたいなのだ。
ドニ・ラヴァン演じるアレックスは、野良犬のようにパリの街を歩きまわり、走りまわり、所構わず寝転がる。彼は家を持たず、改修中の橋ポン・ヌフの上で暮らしている。彼は火を吹く芸で金を稼ぐ。アレックスの身体能力の高さは映画の中で繰り返し示されるが、彼の場合は自分の思い通りに身体を動かせるというよりもむしろ、感情の全てが勝手に身体に表出してしまっている感じで、制御が利かない動物っぽさがある。
冒頭でアレックスは道路に自分の頭をこすりつけ、更に車で足を轢かれる。彼は繰り返し自分の身体を傷つける。なんのために? そもそも路上で生きることも、酒を飲むことも、自傷行為なのかもしれない。激しい悲しみを自分への暴力に替えて、ハンスの妻は路上生活を始めた。自分の身体をぞんざいに扱う。腑抜けになろうとする。緩慢な自殺。それが救いになるという、その気持ちはよくわかる。でもアレックスは? 彼の場合、痛みによって自分の身体を認識しているように思える。自分の感情と身体が乖離しないように。痛みが必ずしも麻痺をもたらすわけじゃないということをわたしは知らなかった。
ミシェルを愛してから、アレックスはもうただの野良犬ではいられなくなる。初恋を失い、視力をも失いつつあるミシェル、その欠けている部分が二人を結びつける。二人は花火と爆竹の中を踊りまわり、水上スキーをし、名前を呼び合いながら海岸を走る。安いワインをがぶ飲みして酔っ払い、狂ったように笑い転げる。アレックスはミシェルを追いかけ回す犬になる。アレックスはミシェルがポン・ヌフに帰って来なかった夜に、自分の身体を刃物で傷つける。誰かを愛すことは、自分の身体が自分だけのものではなくなることだ。
アレックスに肩を抱かれて地下道を歩きながら、ミシェルは「わたしの盲導犬になって」と言う。「犬の真似して」と。アレックスは犬になってミシェルを舐めるふりをする。アレックスはお得意のバク転を披露してミシェルへの愛を表現する。その先に二人を引き離す「ミシェルのポスター」が待っていることをわたしはもう知っているから、アレックスの犬の真似を見ると悲しくてしかたない。捨てられる犬。捨てられたことがわかったときアレックスは銃をどう使ったか?彼は頭を撃ち抜いたりしない。彼は自分の指を吹き飛ばす。
昔飼っていた犬がよく夢に出てきて、いつも彼女はもうすぐ死んでしまうところだ。実際に彼女が死んだ時、わたしはもう同じ家にいなかったから、死んだことを朝4時の電話で知らされた。彼女は晩年、脚を悪くして歩けなくなっていた。彼女はわたしをとても愛していたと思う。6歳から19歳になるまで一緒に暮らした。彼女はいつもわたしの周りを走り回っていた。彼女を置いて家を出たわたしを、彼女は恨んでいたと思う。