メラニンと呼ばれるほど黒く灼かれたわたしは陽光を嫌悪していた。太陽に閉じこめられた西の田舎から逃げた。東の都市に向かった。グレーに燻んだ昼とピンクに靄った夜が目新しく、排気ガスを深々と吸いこみ、人工照明を煌々と浴びた。愉しかった。窓のない屋根裏部屋にわざと暮らしてみたりして、ついにわたしは太陽と縁切りするのだと鼻息を荒くした。真っ赤な血尿が出ただけだった。若くて苦い思い出だ。
取り返しのつかない、小さな瞬間
窓は外と内を隔てるものであるけれども、同時に鏡のような存在でもある。だから、窓の外あるいは内側を眺めるだけでなく、自分がいる空間を見ることもできる。よく電車の窓で髪を直す。家の鏡みたいに。その時にふとああ隣にこんな人が立っていたのか、と思うこともある。でも鏡と違って、ガラス窓はいたるところに存在していて、そして光を通すために作られたものであって反射させるためのものではないから、誰でも窓に映る自分の姿にそこまで自覚的ではない。
誰かを想う、瞬間の空間
わたしは今の家に引っ越すときに、ベットを解体しないまま運んでもらったので、とても大変だった。玄関から入れる事が不可能な家なので、お風呂場にある一番大きい窓から運んでもらった。わたしの家は2階で、ベットは宙吊りに。それはとても不思議な光景で、ワクワクしたのを覚えている。そのまま宙に浮いたベットで寝てみたいなぁ、とか、想像したり。
自分を呪いから解放する
このあいだ、ギヨーム・ブラックの『やさしい人』を久しぶりに観た。この映画はヴァンサン・マケーニュ演じるマクシムの失恋と再生を描いていて、ヒロインのメロディは魅力的だが手に入らない、マクシムが失ってしまった若さを象徴するような女性として登場する。
それで、5年前に観たときはマクシムのさみしさや、以前「日記」のテーマでも書いたマクシムと父との関係が印象的だったけれど、今回は観ているあいだずっと、メロディの悲しみのことばかり考えていた。考えていたというか、なんかもう変になっちゃって、満席のユーロスペースの端っこで涙が止まらなかった。