スーハースーハーする数値
住本尚子
2021年といえば、パルスオキシメーターがお家に届いて、血中酸素濃度が測れるようになった。仕事場では二酸化炭素がどのくらいあるのかを測れる機械もあり、酸素と二酸化炭素が数字で見えるようになった。吸って、吐いてを繰り返している人間の痕跡を数字で確かめていく作業は、少し秘密めいている。あなたたちの残した二酸化炭素を、私は知っているのよ、という気分。
『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン』の中にある二酸化炭素濃度はとても高いきがする。だからジャンヌは窓を開けては外の空気を部屋に入れ込むのだろうけれど、毎日主婦としてご飯を作り、お風呂に入り、息子の靴を磨く、長年の蓄積されたリズムの一つ一つが無意識の域。部屋には彼女の行き届いた趣味や飾りがあるのに、少し拭いてみるだけで思い入れは消え去っている。何か違うと感じて吐き出す牛乳と珈琲も、吐き出すことは出来ても、何がおかしいのかまでは分からなくて、ジャンヌの中身が空洞で満ちているから、もう何も入らないだけなのかもしれない。
『ウェンディ&ルーシー』を観た。ウェンディが人間で、ルーシーが犬で、一緒に車で移動する。ウェンディは家から逃れて、もしくは居られなくなって、車で仕事を探しに行く。ジャンヌよりはもしかしたら不規則に動けるはずなのに、車もウェンディも失いそうになる。どっちがいいだろう。失いながら住まいがあるのと、住まいがなくて失いたくないものがあるのと。
『ノマドランド』では、キャンピングカーで暮らすファーンが、住所も家族も家も失ってしまったけれど、思い出の食器や写真を詰め込んで暮らしている。工夫の凝らされたキャンピングカー内はとても手が行き届いていてみていて安心する。ファーンは生きていると感じるからだと思う。けれど、あまりにも行き届きすぎているのも不安になる。失った時のことを考えてしまうからかな?二酸化炭素濃度も気になるところ。二酸化炭素が多いということは、それだけ人がそこに存在していたということで、ファーンは亡くした夫や父親の、今はもうないはずの二酸化炭素まで運び出しているみたいだ。でも、重苦しくは感じない。おそらく景色が雄大だから。私がいつも見ている景色は限られていて、職場に行くときと映画館に行くとき、電車とその他の移動するとき。コロナ禍もあってなおさらおんなじような空気を吸いに行っていることに気がつく。ノマドランドを観た後に、わたしはもっと違う空気を吸いたくなっていた。
東京国際映画祭で観た『洞窟』では、洞窟を探索するグループと近くに住む老人が交互に映される。物語が語られないからこそ、呼吸が立ち現れていく。探索グループが洞窟の奥に進んでいくにつれて、老人は元気をなくしていく。最後なんて、まるで洞窟が老人の身体の中なんじゃないかなんて考えてしまって、人間が異物なように感じてしまった。思わず体内のことを意識する。いつかは訪れる最期のとき、身体の中は静かなのだろうか、音を立てるのだろうか。
静かに涙を流したり、虚に消えていきそうな人を映画内で見ていると、自分もカメラや誰かの瞳には映らないところでこんな感じかもなぁとぼんやり思う。みんなもそうだろうか。カメラを向けられるとピースをしてちゃんと元気ですよと残したがる精神が、一体どこから湧き上がっているのか、自分を成り立たせるための強さを前借りして生きていると、ふとした瞬間はほとんど抜け殻のように薄くて軽くなっているような気がする。
とにかく生き抜いたのだった。2021年はわたしにとって激動の一年で、呼吸をしていることなんて忘れていた。だからあえて呼吸していたことを思い返してみる。言い聞かせてみる。わたしは今日まで沢山呼吸をしてこれたんだ。例えわたし自身が薄かろうが厚かろうが、呼吸が浅かろうが深かろうが、何とか生きている。それだけでもう充分だ。2022年は、もう少しゆっくり息を吸って、ねぇ、吐いていこうね。