はじめて空がわたしにできた
住本尚子
今年のはじめに、小津安二郎監督の『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』を観た。その時に「空がよく見えた。」と言っている人がいた。ほんとうにそうだった! 道と空と子供しかない場面もあって、ずっとずっと遠くまでこの場所が続いているようにさえ感じた。いつしか東京の街は空が建物で削られていき、見ようとしないと空は見えなくなっている。
見ようとしないと見えないものがある。
わたしは今、パレスチナで起きている大量虐殺について、毎日考えている。同じ空の下で生きている命が、同時代に大量に殺されていることを情報として目にするのに、止められない。世界のあらゆるところでこの理不尽な侵略や攻撃は起きているけれど、こんなにもSNSで現地の人たちから送られてくる悲惨な状況が、自分の目に入ることは今までなかった。
『ガザ・サーフ・クラブ』を観た。ガザは海が近い。ガザの若者たちが、波に乗りサーフィンを楽しんでいる。サーフィンをしているなんて知らなかった!波の強い地中海を見ていたら、思わず波に乗りたくなるのかな?繰り返されるイスラエルからの爆撃があっても、わずかな停戦の間に、波は彼らを解放した。サーフィンをしている間は、海と空はひしめくように画面に映り、視界は広く、どこまでも空間は広がっているように見える。それでも時々映る建物には銃撃の跡があり、崩れ落ちている。漁師をしている男性は、ガザから出られずに一生を生きていくのだろうと話している。彼は子供よりもサーフボードが大事だと話す。子供はまた作れるけど、サーフボードはなくしたら手に入らないと…。
『PERFECT DAYS』の平山さんは毎日出勤前に空を見ていた。これは、世界との繋がりを毎日感じるための儀式のように見えた。その心構えに日々の忙しなさを反省する自分がいたのと同時に、この映画が描いていない東京の側面、トイレを封鎖され、行き場をなくした美竹公園に住んでいた人たちのことを思い出す。警察官や渋谷区の役所の人たちが、大勢で押し寄せ、何の説明もなくトイレを、公園を封鎖していった映像を見たときに、あぁ、見ようとしていないんだ。目の前にここで暮らしている人がいるのに、無視できるんだ。と、その冷徹な態度に心底恐ろしくなった。トイレを描くということは、デザインの美しいトイレを映し、日本はきれいだね。と魅せるだけではすまないはずだ。誰しもが排泄をしているわけで、公園のトイレを使ったことのない人はほとんどいないと思う。なんとなく想像できる人たちの悲喜こもごもだけを描くには、あまりにも見過ごしているものがあるんじゃないかな?
わたしは映画から世界を知った。と同時に、映画を観ているだけでは世界は変わらないのだとますます感じるようになった。だって、そもそも映画はこんな風に見たいものだけを切り取ってしまうんだもん。それに、こちらは映画を見るときにはただ座っているだけだもん!不完全だ。映画なんて。それでも日々の忙しなさからすべてを遮断し、ある時間集中して作品に没頭できる、わたしにとって映画を観ることは唯一の救いでもある。映画がなければ多分、わたしは立ち止まって考えることができないだろう。
昨年の11月からデモに行き始めた。スタンディング(立ってプラカードを持ったりコールをしたり、スピーチしたりする)やダイ・イン(死者を模して地面に寝転がる抗議)にも参加した。あらゆる抵抗の方法があり、今のままじゃダメだという心のモヤモヤを、虐殺やめろ!Flee Palestine!と声に出すことで、本当に止めたいという気持ちは増していった。そして同じ気持ちを抱える人たちと直接会って、声や話を聞いたら、どんどん知らないことを知るようになった。直接助けてください。動いてください。という切実な言葉を聞いた瞬間に、胸にずしんと感情が届く。それは重いとかではない。誰もが持っているはずの、どうか殺さないでほしい。という気持ちが、実感を持って目を覚ましたんだと思う。
パレスチナのことに向き合うことで、他の国のことも日本のことも同時に考えるようになった。考えなければいけないことは山ほどあった。守らなければいけないものがいっぱいあった。わたしにはこんなにも大切にしたいと思えることが多かったんだ!と驚いた。家族や友達や近くにいる人だけじゃくて、同時に遠くにいる人のことも大切にできることを、わたしはデモやスタンディングに行くことで気づき始めた。本当の意味で、世界は繋がっているという認識が持てるようになった。
視界は驚くほど広くなった。空を見上げるという儀式を持たなくたって、わたしには自分の中に空があるって思える。目を瞑っていても、わたしには見えるものがある。