誰かを想う、瞬間の空間
住本尚子
わたしは今の家に引っ越すときに、ベットを解体しないまま運んでもらったので、とても大変だった。玄関から入れる事が不可能だったので、お風呂場にある一番大きい窓から運んでもらった。わたしの家は2階で、ベットは宙吊りに。
それはとても不思議な光景で、ワクワクしたのを覚えている。そのまま宙に浮いたベットで寝てみたいなぁ、とか、想像したり。
それとは逆に、窓から荷物を落とすところから始まる映画がある。
ペドロ・コスタ監督の『コロッサル・ユース』は、妻から荷物を投げ出され、出ていかれたヴェントゥーラが、"子供たち"の家を転々と訪ねて回る。
ぐるぐると、行く宛が無さそうに…。
舞台はポルトガル。
古くからカーボ・ヴェルデ諸島出身のアフリカ系移民が多く住む、リスボン北西郊外のフォンタイーニャス地区だ。ヴェントゥーラは、34年間住み続けている移民労働者のひとりだ。開発が進み、立ち退きを迫られているので、きれいな真っ白の壁の集合住宅に引っ越すべく、下見をしに行く。その合間合間に、離れて暮らす”子供たち"に会うのだ。
この映画は、ほとんどどこかの部屋にいるシーンばかりで、窓際にいることもあるのだけど、その窓は決して開け放たれたりはしなくて、ずっと閉鎖的だ。どの部屋にも窓がちゃんとあるのに、風を感じられない。 それが全て、滞ってしまった人間関係にも見えてくる。
わたしも家族とは離れて一人暮らしをしているから、家族に会いに行くときは、バラバラに暮らしている家を転々と訪ねて回る。
家族とは不思議なもので、どんどんバラバラになる。もちろんずっと一緒に暮らしている人もいるけれど、いずれかは別れがくるものだ。
わたしのおじいちゃんが、今年の4月に亡くなった。
前からおばあちゃんは入院していたから、今、おじいちゃんとおばあちゃんの住んでいた家には、誰も住んでいない。そんな事、小さい頃には考えた事もなかった。おじいちゃんの最期に、おばあちゃんは立ち会えなかった。どうやら夢で、おじいちゃんに会ったそうだけど…。
勝手にふたりはあの家で最期まで過ごすと思っていた。永遠なんて無いって知ってるくせに、その時初めて知ったような気がした。
ヴェントゥーラは、その新しい集合住宅で、住む部屋の広さにこだわっていた。
大家族なんだ、そう言うヴェントゥーラの言葉には、なんとなく、永遠を感じた。
ヴェントゥーラの言う家族というのが、果たして本当の家族なのか、共同体としての家族なのか、はっきりしないのだけど、どんなに離れていようとも、一緒に過ごしたいだれかの存在を信じるその姿に、私はなんだか愛情を感じたのだった。
永遠の命はないかもしれないけれど、永遠に想うことは出来る。いつかまた一緒に住むかもしれない、家族のことを。
おじいちゃんは、おばあちゃんが入院している時も、常におばあちゃんの事を気にかけていた。
一軒家で、ひとり。
私の父や叔母はその家で育ち、今は別の家で暮らしている。
時々は、孫の私のことも思い出してくれていただろうか?
どんな事を考えながら、ひとりで過ごしていたのだろう?
家族って何なんだろう?最近よく考える。
昔は当たり前のように一緒に過ごしていたけれど、何だかたまたま一緒に暮らしていたんじゃないかとさえ思う。
だけど、時々予定を合わすでもなく帰れば会えるような間柄だし、ケンカをしたとて、仲直りを意識しないでも、自ずと理解しようと試みる。
そんな無意識が、最近は愛情なのかな?なんて思ったりする。
ヴェントゥーラの行動が、ただただ巡っているように見えるのは、そんな無意識な愛情があるからなのかも知れない。
ふと、今住んでいる家の窓を開けてみることがある。
ベットを入れ込んだ風呂場の窓からは、どの窓よりも空が見えて、時々眺めては、離れて暮らす家族のことを考えてみたり。
頻繁に連絡をとったりはしないし、別に何を思うとかではないけど、なんとなくふとした時思い出される顔や表情があるもんだから、家族はいつまでも家族を想うんじゃないかなと思う。
普段外で眺める景色と、部屋から見える景色はちょっと違って、窓から見える景色は、どこかの部屋にいる、だれかの窓と繋がっているような気がする。
窓から差し込む太陽の光は、きっと実家でも差しているだろうな、とか、でも天気予報が雨だったら、向こうでは雨が降ってるのか、とか。
すっぽりと私の家に入ったベットは、一瞬、だれかの景色となったことがあると思うと、ちょっと誇らしい気がした。
誰かを想う、その一瞬に立ち会えたかもしれないから。