断片的なもの
こばやしのぞみ
友達に誘われて銀座シネパトスで『銀河鉄道の夜』を観た。7月の終わり。レイトショー。変な色の猫。細野晴臣の音楽。映画を観たあと人が全然いない街を歩いた。夏の平日の夜に銀座が閑散としていることなんてあるのかな。映画の記憶と合わさっているからか、思い出す景色がのっぺりしている。まっすぐ続く道と規則的な街灯。コンビニでビールを買ったかもしれない。
どうしてそうなったのかもう覚えていないが、そのあと横浜へ行った。終電を見送ってから、みなとみらいというか新高島らへんのファミレスに入って時間をつぶした。彼はどうしても日の出が見たいらしかった。3時くらいに店を出て山下公園まで歩いた。海に面したベンチに並んで座ってたら知らないおじさんにからかわれた。疲れたしもう帰りたかった。駅へ向かって歩きはじめたとき、ローソン横の歩道橋あたりで、太陽が海から上がってくるのが見えた。やたらと眩しかった。
同じ人と『夏の娘たち~ひめごと~』をポレポレ東中野で観たのはそれから5年後の、またしても暑い7月の夜で、わたしはその日の昼間に働いていた映画館で監督の訃報を聞いた。チラシには「飛べばいい。飛べば《映画》に近づくのだから。」という監督の言葉が書いてあった。映画館を出たら中央線沿いのフェンスに彼の自転車が立てかけるのが目に入って、なんだか懐かしい気分になった。わたしたちは近くの公園でビールを飲みながら、映画のことをたくさん話した。当時東中野から遠いところに住んでいたので、駅で別れたのは23時ころだったのに、事故で電車が遅れて家に着いたら2時を過ぎていた。同じ車両に中学校の同級生が乗っていたけど、話しかけなかった。スーツを着て、疲れた顔。
大学へ通うのをやめて映画館で働きはじめたとき、わたしはかなり混乱していた。なにが不安なのかよくわからないけどとにかく不安だった。「不安が不安」の状態。ちょうどその映画館で『フランシス・ハ』がかかっていたが、その頃わたしは何もかもを深刻に考えていて、というかたぶんそう考えることが好きだったので、「モダン・ラブ」で走る姿ならグレタ・ガーウィグよりもドニ・ラヴァンのほうに感情移入した。とりあえず毎日映画を観る。仕事の前後に職場で観る。シフトのない日も、たいていどこかしらの映画館にいた。映画は、スクリーンの前に座ったわたしを、いつもあたらしい光で照らしてくれると思った。
映画館が好きなのは、いろんなものが同時に存在することがすばらしいと思っているからだ。すべてのことは多様であってほしい。べつべつに生きるひとたちが集まって暗闇の中で同じ画面を見つめ、またばらばらになって帰っていく。なにかを共有することもあるし、しなくてもかまわない。映画にまつわる記憶は、それぞれの人生の中で浮遊する断片となる。その断片的なもののきらめきを、わたしは愛している。