Kill Yr Idols ときめきに死す
増渕愛子
ゴダールの「ウィーケンド」を観た時、というよりも、「ウィーケンド」の渋滞シーンを大学の寮のテレビの画面で、そこで読み取れるものを情熱的に話しかけてくる親友のコメンタリー付きで観た「ウィーケンド」。その時、私は初めて文学を「読み解く」、「分析する」という行為を映画でも出来るという喜びを知った。しかも、動いているもので出来る。ただ「観る」という行為から「噛んで(感で)味合う」という行為に変わった瞬間。ときめき。
またゴダールで始まる映画の文章か、、、でも、自分が「映画を観る」、「作る」、「分析する」というときめきを自覚的に追いかけ始めたのはゴダールに出会った時だったということを先日たまたまゴダール追悼のポッドキャストを聞きながら思い出してしまった。そして、その思い出とともに蘇ったのが、その時感じてた「抗う」気持ちだった。その頃、よく知恵熱みたいなものを出していた。その日に読んだもの、観たもの、聞いたものなどに触発されて、寝れなくなり、熱を出しながら、「革命だ!この凝り固まった資本主義の状況は革命以外に変わらない!」とその場にあるメモになぐり書きしたりして、こもった熱に震えながら、留学先の真夜中のマンハッタンの街に出て友達に電話したりしていた。2008年頃、オバマが当選される前、当然トランプの前、コロナの前、、、。
ビートルズの You say you want a revolution?が頭の中を巡り、 Yeah!って夜の街で叫んでいた。(私はたまに自分が考えていることを認識出来る前に、歌詞の断片が頭を駆け巡り、それを歌い続けているうちに、自分の考えに気づくことが多々ある。)それを聞いた友人が、「その歌詞って革命を馬鹿にしてるんだよ」と私に言い、とても恥ずかしくなったとともに、でもその部分だけ聴いて触発された自分を慰める気持ちもあった。人間、結局断片的に観たいもの・聞きたいものだけが入ってきてしまう。そんな甘えを自分に許してしまう自分がいる。何よりもその時、分かってくれると思った友達からのさっぱりした返事によって、とても心細くなった。なんと言っても、革命は一人では出来ない。寂しい。
それから15年経った今も、その寂しさを抱え続けている。
久しぶりにビートルズのRevolution 1を聞いてみた。歌詞も読み直した。確かに「なんて馬鹿げた事を言っているんだ」的なクールな佇まいで歌ってる。けど、忘れていたのがその時のレノンの参加するかしないか、どっちにも言い切れていない You can count me out (in).悩んでいたんだ。自分は間違ってもいなかったし、友達も間違っていなかった。
プロデュースした「百年と希望」という西原孝至さんが監督した日本共産党を追ったドキュメンタリーの上映で今ロッテルダム国際映画祭に来ている。日本では映画作りについての質問が多かった気がした一方、こっちでは共産主義についての質問が多い。その中から出た暴力と非暴力の革命についての論点。
着いてからのロッテルダムは毎日曇っている。低気圧に弱い私はなんとなく憂鬱。気持ちも考えも散漫。目的なく散歩してやっと身体と言葉が噛み合う気持ちになる。こんな状態に陥ることを予測せずに文章を書かせてもらうことにしてしまい、書く身体と考える身体がバラバラに動いてしまっている。落ち着かない。
60年代の学生運動。目の当たりにしていない分、かっこいいと思い尊敬する自分がいる一方、それがあったにも関わらず、こんなズブズブな資本主義で家父長制な世の中に生まれ、生きている事実。
何かが変わらないといけないことは間違いない。We all want to change the world(レノンが頭の中で歌う)。
映画祭も異様なところだと思う。昨年一気にロッテルダムから解雇されたプログラマーたちがいる。とても尊敬するプログラマーがその中にもいた。理不尽だ。その一方、ずっと同じ人達が映画祭のプログラミングをしていたら、新しい人達、若い人たちが入ってくる場所がないという指摘も聞く。それも問題。社会の問題。誰かを入れるために誰かを捨てるという構造自体に問題がある。しかも、それを決めるのは上に立つ者。
昨年、東京で「映画祭を解剖する」というイベントに参加した。その時、リモートで事前収録されたトーク中、登壇していた友人のアビー・サンが映画祭は「所詮 排他的だからキュレーションに価値が出る」ということをさらっと指摘した。つまり、上映されない作品があって、上映される作品に価値が出るということ。この事実にちゃんと向き合う必要があると思う。それで、選ばれた者たちがちやほやされて「上映されてよかったね」って映画祭のバッジを持った者同士褒め合うことの不味い後味についても考えたい。選ばれる事はもちろん嬉しいのだけど、そもそもどういう人達に選ばれているのか、何を大事にしている人たちに選ばれているのか、何が選ばれていないのか。
ロッテルダムは比較的「監督様」的な扱いが少ない映画祭であることをスタッフの友達が教えてくれた。確かに。でも、自国で「監督様」、「俳優様」扱いされている人達がそれを映画祭のスタッフから期待することがあって困ると言っていた。日本から来る「おっほん、お偉い様」たちに限らない問題だとも言っていた。おえっ。一番気持ち悪いのは、自国で偉そうにしていて、ヨーロッパの映画祭に来るといきなり良い人になる人達だとも言っていた。本当だよ。
大学時代、よく友達は「Kill Yr Idols!」と叫んでいた。Sonic Youthの最高にかっこいいトラック。なんで今この曲を思い出したのだろう?と調べてみたらこんな歌詞で始まる:
I don't know why
You want to impress Christgau
Ah, let that shit die
And find out the new goal(https://www.youtube.com/watch?v=F8LYpyXerDg)
Christgauとは崇拝されていたロック音楽の批評家Robert Christgau。なんであんなやつに感動してもらおうとしてるんだ。そんなくそ死んじまえ。新しい目標を見つけろ。
Kill Yr Idols!己のアイドルを殺せ。アイドル視することとは、上を見上げて崇拝すること。お偉い様なんて死んじまえ。新しい目標をみつけろ。
最近パンク精神がある音楽を聞いていなかった。
今年は愛しい仲間たちと長編映画を撮る(私はプロデュース)。世界を変えたい若者たちが登場する。Kill Yr Idols! ゴダールでもなく、Sonic Youthでもなく、映画祭のためでもなく。ときめきに死す気持ちで。
追伸:「ときめきに死す」は大好きな映画の1本。だけど、ここでは題名自体に惹かれて引用させてもらっている。
増渕愛子 Aiko Masubuchi
東京・下町生まれ。東京とニューヨークを拠点に映画のキュレーションとプロデュースをしている。主に日→英の通訳・翻訳もする。2011年〜2018年くらいまでNYのバンドでドラムを叩いていた。