慌てないでっていってるんでしょ?
住本尚子
もう直接話すことなんてできない、放つ言葉を選んで欲しい。そう思って恋人と手紙のやりとりをした。何通かやりとりしたけれど、質問したことに答えてもらえなかったり、返事がもらえない状況になったりと、うまくいかなかった。おそらく、わたしにとって手紙というのは最終手段みたいなところがあって、直接会うよりは相手のことをより深く考えられるような気がしていたんだけど、相手にとっては違ったんだと思う。
必ずしもみんながみんな手紙が得意なわけじゃないもんね。そんなことを思いながら、それでもわたしは手紙を深く信じているところがある。
長い長い手紙を書いた。その時にわたしはあらゆる記憶を蘇らせた。ひとつのことを伝えるために、相手と過ごした記憶を巡らせて、ここでこう思ったな、とか、こんなことが悲しかったとか、もしかしたら自分の気持ちを整理するために書いていたのかもしれない。
ここ最近、監督特集系の映画を立て続けに観た。その中の一つには必ずアーカイブ映像を用いた作品があった。モフセン・マフマルバフ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム、シネマ』では、歴代のイラン映画のアーカイブが使用され、パウロ・ローシャ監督の『もしも私が泥棒だったら…』では彼の過去の作品が引用される。オタール・イオセリアーニ監督の『唯一、ゲオルギア』では激動のジョージアの歴史の蓄積を映像で繋ぎ合わせていた。そういえば、ゴダールの『映画史』もそうだ。彼の映画の源流がここにあるんだ!と思ったとき、少しゴダールのことが好きになったもんだ。
彼らを作り上げた記憶の集積を観ることができると、その人となりが少し分かるような気さえする。彼らの目で見てきた大切な宝箱のような映像は、作家の創作の根源を知りたいというわたしの気持ちに答えるようだ。
シャンタル・アケルマンの『ゴールデン・エイティーズ』を観た。ショッピングモールの一角、ブティックと美容室とカウンターのみの喫茶で繰り広げられる恋模様のミュージカル。映画の初めに、喫茶の店主のシルビーが、カナダに旅に出た恋人からの手紙を読む。その手紙にはカナダの雄大さやシルビーへの想いが綴られていた。そうそう、これこれ!これこそ手紙でしか書けない言葉だと思った。どんなことを考えているのかわたしは知りたいから手紙を始めたんだ。映画を観ていて思い出した。
あなたが何を考えて何を感じて、どうして話すだけでは理解し合えないのか、わたしはずっとずっと分かりたくて手紙を待って、書いていたのだ。わたしには直接会って話せない言葉があって、相手の目を見て、呼吸をしながら本当の気持ちを伝えることができない。相手の気持ちを察してしまうと、自分の気持ちをうまく伝えることができないからだろう。もしかしたら映画を撮る人たちは、映像を介することでどうにか他者と交わろうとしているのかもしれない。
映画の中でシルビーは何度も手紙が来たと喜んでいたけれど、最後の方は恋人を待ち過ぎて、会えるのが嬉しいのかもよく分からないと話していた。わたしもそうなってしまった。結局、手紙の持つタイムラグに、こころが追いつかなくて、LINEやメールに慣れてしまったわたしには、理解できないままの時間が耐えられなくなってしまっていた。待つことがもしかしたらわたしには必要だったのかもしれない。不安でい続けることの苦しみや、すれ違う気持ちの誤差に耐えるための術を、わたしはまだ知らないままでいる。
忙しない波にいつものまれてしまう。その波に溺れてしまわないように、なるべくゆっくりとする時間も作らないと、優しくはなれないんだろうな。優しくなりたいとこの前友達が話していた。うん。わたしも優しくなりたい。大きな呼吸をして、ゆったりと何事も待ち続けられるこころの余裕が欲しい。ああ、でも結局この前銀行で口座を開くのに忙しない態度を受付の人にしてしまい、もうすでに反省している。受付の方、ごめんなさい。