海へ行こうか
こばやしのぞみ
用もなく海へ行くといつも、なんとなく逃げてきたみたいな気分になる。昔よく学校や家を抜け出して海を見に行っていたからというのもあるし、いろいろな映画の影響もある。
伊藤智生監督の『ゴンドラ』をはじめて観たとき、エドワード・ヤンの『恐怖分子』を思い出した。幾何学的なイメージの連なり(たとえばレコードとガスタンク、五線譜と線路)が多用されているところや、孤独を抱える人々を描いているところが重なって見えた。そしてどちらも、都会の生活の下に潜むものについての映画だと思う。それは、『恐怖分子』においては暴力として表出されるが、『ゴンドラ』では海へと流されることによって昇華される。『恐怖分子』があくまでも都会の映画であったのに対し、『ゴンドラ』には海へと逃げる道が用意されている。
『ゴンドラ』の主人公の少女・かがりは、東京の真ん中の洗練されたマンションの一室で母親と暮らしている。この部屋に象徴される清潔で整然とした都会では、生や死を鮮烈に連想させるものは隠されていなければならない。だから、その決まりが破られたとき、人々は眼前に表れたものを忌み嫌い、排除しようとする。しかしかがりはそれらを器用に隠すことができない。プールで生理の血を流し、同級生たちからいじめを受ける。飼っていたインコ・ピーコの死骸を大切にするあまり、処理に困って冷蔵庫へ入れ、それを母親に捨てられた上、ひどく叱られる。かがりは怒りを覚えるが、何をすることもできない。ただ現実から逃れるように、繰り返し白昼夢を見る。今はもう会えない父親が出てくる。彼女は失われた子ども時代の幻を見ている。
青森の小さな漁村から上京し、ビルの清掃をしている青年・良は、窓拭きの仕事のために乗るゴンドラから街を見下ろすとき、そこに海を見ている。良は窓の向こうの人々の生活を知っているが、彼らと言葉を交わしたことは一度もなかった。透明な隔たりによって疎外されている。冷たい都会から一時的に逃避するように、良は街に海を重ね合わせる。良は窓ガラス越しに出会ったかがりに、窓の向こうの人と話すのは初めてだと言う。
かがりの気持ちが限界を迎えたとき、良はかがりを故郷へ連れていく。青森へ向かう電車や、良の実家に泊めてもらう場面、ピーコの弔い、夕日に照らされて海に浮かぶ小舟の上の二人の黒いシルエットなどはとても美しいけれど、ファンタジーだなあと思う。実際、自分は「都会」と「故郷」の対比を体感したことなんてない。わたしの見ている海はいつも都会の延長にある。だから逃避行ごっこしかできない。逃げる場所も帰る場所もない。
逃げ場がないといえば、神代辰巳の『恋人たちは濡れた』はすごい。舞台は海辺の寂れた町で、主人公の男はそこに初めて来たと言い張る一方で、町の人たちはみな男のことを知っている。男は故郷に帰ってきたことになっている。男は町を出て行こうとするが、うまくいかない。自転車の車輪や回転する映画のフィルムが男の動きを象徴している。ラストシーンは二人乗りの自転車がぐるぐる回ったあと海に突っ込んでおしまい。でもこの映画にはどことなく軽さがある。それは諦めから来る軽さな気がする。浜辺の馬跳びの虚無感。中川梨絵の飄々とした感じ。こうなりたいな。結局は同じところをぐるぐる回ってるだけのかもしれないけど、もうそれでいい。疲れた。