ぼーっと生きていたい
城真也
正直映画を見る気分になれない。世の中がこんな状態になってしまって、気持ちが滅している。SNSで「コロナ」の文字を見たらアプリを閉じる、を自分に課すも半日続かなかった。いつも極端なルールばかり思いつき、実行しては失敗してきた。十代の頃からずっと、何かを本気でやりたいと願ったことなんて一度もなかった。生の実感のない人生はもはや余生だ。生まれてこのかた無常観しか持ちあわせていない。世代柄なのかわからないけど。
今回の話をいただいて、テーマは海だから好きな海映画を選ぼうと考えたのだが、心の底から好きと言える海映画が存在しないことに気が付いた。新しく、海が出てくる映画を選んで書こうと決めた。久しぶりに近所のTSUTAYAへ出かけて一本だけDVDを借りた。カードの期限が切れていたので再発行してもらった。そう長くはないだろうな、この店も。来年の今頃は、レジを打つキミも別の仕事してるよ。
2001年ヴェネチア国際映画祭で<最優秀脚本賞>のメキシコ映画、アルフォンソ・キュアロン 監督『天国の口、終りの楽園。』である。以下、YouTubeに上がっていた予告編の詳細欄のあらすじから引用。
幼なじみのテノッチとフリオの頭の中は常に女の子のことでいっぱい。今年の夏はお互いのガールフレンドが旅行へ出かけてしまったため、偶然パーティで知り合ったルイサを誘い、幻のビーチ「天国の口、終りの楽園」を探す旅に出る。大人の女性の魅力に浮かれるテノッチとフリオ。 一方ルイサは、夫との仲がこじれかけている。それぞれの思いを抱きつつ、奇妙な3人の乗った車は南へと進んでいく...。
本作中で登場するビーチは「天国の口」という名前で「終りの楽園」というのは宣伝の日本人が考えた余計な言葉だろうが、「「天国の口」っていう幻の浜辺があるんですけど、お姉さん僕たちと一緒に行きませんか?」とナンパしたら案外誘いに乗ってきたので、妙齢の女性とホントに旅に出ることになった、というロードムービーである。 メキシコシティを出発して「さすがに、白状する?」と男二人で迷いつつ南へ向かえと進んでいたら、人気のないカリブ海の浜辺にたどり着いた。そしたらそこはたまたま地元の人から「天国の口」と呼ばれているビーチでした、というオチ。
車内の会話がほぼ下ネタなのがキツい。想像してみると非常に嫌だ。旅の同乗者がずっと下ネタを言ってるなんて最悪だ。元来下ネタがあんま得意じゃないのもあるが、愛想笑いするにも飽きて関係性にヒビが入る。下ネタは旅行を悪くする原因の一つだ。 にも関わらずテノッチとフリオは終始イカ臭い話題ばかりで辟易とする。少し黙れと思う。官能小説ならぬ官能映画をやろうとしたのかキュアロンは?それなら洒落てるが。
話はそれるけど、僕なりのロードムービーの定義があって、ちょっとややこしいのだが紹介したい。 まず映画を空間と時間に分け、その関係をX軸とY軸の図に表す。X軸は空間の移動、Y軸は時間の移動を示す。右上へと伸びる単純な比例の線は空間と時間が現実世界と同じように通常の動きであることを表す。 優れたロードムービーはここが違う。ベルイマン『野いちご』では名誉学位を受け取る式へと向かう老教授の追憶の心象風景を写し、「移動するほど時間が過去へ進む」という不思議な線を右下に描いた。偏愛するモンテ・ヘルマンの『断絶』は地方のストリートレースで賞金稼ぎをして旅するドライバーとメカニックの、「すごい速さで車は進むけど俺たちの時間は止まったままだ」的な停滞のドラマを展開して横ばいの線を引く。(『断絶』は静かな諦念が充満するクールな裏『イージー★ライダー』だ。音楽好きにとってはまさかのジェームス・テイラーとデニス・ ウィルソン主演なので必見。)
「天国の口、終りの楽園。」は「目的地の存在しない旅」を描く。思いっきりネタバレをすると、人妻・ルイサは自分が余命の短い末期ガンだと知って、むちゃくちゃで新しい体験をしようとこの旅の誘いに乗ったらしい。命盛りの少年二人のそばで、中年女性の終活の物語が展開する。つまりこのロードムービーは、人生の終りの比喩としてあるのだ。はじめから具体的な目的地の存在しない旅。「たまたまたどり着いた場所が目的地です」という旅。それが人生。これって仏教っぽいのか不勉強なのでよく分からないが、無常を感じる。
水の作家と呼ばれる映画の作り手がいる。タルコフスキーの湿度は凄まじい。相米慎二のプールや雨や海は過酷な舞台だ。堀禎一もそうだった。アルフォンソ・キュアロンもまさしく水の作家の一人だ。
テノッチの暮らす豪邸の階段脇には噴水が配されており、道中で一泊したホテルの中庭には大量の落ち葉が浮かぶプールがある。パーティーではワインをこぼし、車では窓から唾を吐き、やたらめったら放尿する。「そこまでして写したいのか?」と思うほど、キュアロンは手を変え品を変え画面に水を出現させる。車の走行中に熱された蒸気が爆発してボンネットから水しぶきが上がったの、燦々とした光に反射してキレイだった。
テノッチとフリオはよく泳ぎの速さを競い合う。水の中のレースをバカ丁寧に水中撮影しているのだが、水の中での「身振り」をどう撮るかについて、キュアロンはよく考えている。
水の中での「身振り」はその人の人生観を表す。登場人物の水の中での身振りを見れば、人生観の違いが見えてくる。青年期のテノッチとフリオの場合、水の中で手足を掻いて前へ前へと進もうとする。何かに抗うかのように。一方、終末期のルイサの場合、水面にただ体を浮かべるだけで、”人生は波のようなもの 流れに身を任せて”という格言を残したりもする。
もう僕も若くない。風邪をひくのが怖いし、翌日に疲れが残るのが嫌だから早く寝たい。最近二十歳の子と話していると自分のおじさんぶりにゲロを吐きそうになる。だからか、このルイサの人生観には共感した。流れに身を任せ、たゆたうように生きる。そうしていたら、どこかにたどり着く。そこがわたしの目的地なのだ。
ところで、あなたは海に体を浮かべることができますか。自分はできません、苦手です。まだ海を完全に信頼できていないのだろうが、体が沈んでいきそうで怖い。体を浮かべるには「死人」のように体の力を抜くのがコツらしいのだけど、どうにも力が入ってしまっていけない。 喫茶店で目の前の椅子に座った友人が「しばらくぼーっとしよう」と言い出した。十分ほど何も喋らず、タバコを吸って目を瞑ったりして過ごす。ぼーっとするのが上手な人は生きるのが上手な人だよな、と思う。この文章を書くのにも、書いては消し書いては消しをくりかえしている。どうにも力が入ってしまっていけない。 喫茶店の窓から街を見下ろすと、渋谷にはまだ沢山の人が歩いている。来週の今頃は、人通りは少なくなって歩いてるだけでお巡りさんに声をかけられるようになるのだろうか。 体の力を抜いて海に体を浮かべるように、ぼーっと生きていたい。
城真也(Masaya Joe)
1993年7月1日生まれ、東京都出身。早稲田大学入学後、2017年、是枝裕和が講師を担当する映像製作実習内で制作した中編『さようなら、ごくろうさん』が第39回ぴあフィルムフェスティバルに入選。 初長編『アボカドの固さ』が2020年夏、渋谷・ユーロスペースにて公開。