水平線の向こう
上條葉月
2020年3月19日、日本から海を越えてフランスにやってきて、パスポートをなくして帰れずにいる。コロナウイルスの影響でパリの街の中は誰も歩いていない。スーパーや薬局、タバコ屋と行った日用必需品のお店以外は、カフェもレストランも映画館も本屋も全て閉まっている。フランスだけでなくヨーロッパみんなそうだし、テレビをつけるとアメリカの大都市も同じ状態だ。でも日本は違うらしい。今この瞬間はきっと東京は世界で一番映画が見られる都市だろう。海を渡っていったら、そんな全く違う光景があるらしいが、なんだか想像できない。
フランスの北部、ノルマンディーのほうに、ディエップという町がある、らしい。行ったことはないけれど、ディエップの浜辺のことを私は何度も映像で見た。ジャン・ローランの多く映画に登場するからだ。 ジャン・ローランは、女ヴァンパイアの映画を多く作ったことで知られているフランスの映画監督である。1968年の長編デビュー作では68年5月革命の雰囲気やヌーヴェルヴァーグっぽさが色濃く出ているものの、その後はヴァンパイア映画のほか2本のゾンビ映画や、殺し屋の女の映画、ホラー、ポルノ映画などいわゆるB映画の監督として知られるようになった。偽名含めて40本以上の作品を作りつつ、ジャン・ローラン名義で作った作品として代表作に挙げられるものの多くはヴァンパイア映画だ。ジャンル映画だけどシュルレアリスムという、誰に需要があるのかよくわからない映画ばかり撮っていて、そこが私はとても好きだ。
彼の(とりわけジャン・ローラン名義で撮った)作品には、共通するモチーフが繰り返し登場する。墓場や教会、時計、2人組の少女、そして海。 ジャン・ローランの長編デビュー作『The Rape of the Vampire』は、もともと中編として撮られたものに後編を足して1本の長編として公開した作品だ。元々の中編『The Rape of the Vampire』は、村の言い伝えを信じ自分たちがヴァンパイアだと思っている4姉妹の住む古城が舞台。この城にパリから若者3人がやってくるのだが、彼らはヴァンパイアや迷信など信じておらず、姉妹たちに日光に当たっても大丈夫であることなどを分からせようとする。そしてやがて、パリから来た若者のひとりであるトーマスは、4姉妹のうちのひとりと恋に落ちる…。
どうにか彼女にヴァンパイアではないのだと分からせようとするトーマスは、彼女を古城から連れ出し、自分を噛ませることで、彼女に自分がヴァンパイアではないと証明しようとする。追いかける村人たちから逃げ出し、ふたりがたどり着いたのがその浜辺だった。しかし、トーマスは結局自分の間違いを身をもって知る。彼の信じる「科学的な」世界こそが間違いであり、正しかったのは姉妹と村人たちだということを。
このラストで、ジャン・ローランはこの先40年近く描き続けることになるヴァンパイアを、同じく長年撮り続けることになるディエップの浜辺で誕生させた。ひとりの都会の若者の、そして見ている私たちの世界の真理がひっくり返る、その舞台としての浜辺。そして続く後編の冒頭で、ヴァンパイアの女王がこの浜辺に海からやってくるのである。まるでこれで晴れて、この浜辺がヴァンパイアたちのものであると宣言するかのように。
彼の撮る浜辺にはボートも港もない。何もない浜辺には、何にも属さない雰囲気がある。水と砂、波に運ばれてきた有象無象の破片たち。だからこそ、町や森の中、人間世界の様子をうかがいながら暗いところでひっそりと暮らしているヴァンパイアたちが自由に振る舞う様子がとてもよく似合うのか。浜辺は誰のものでもなく、そしてそこへたどり着いた人のもの。
ジャン・ローランにおける海は、ある種の異次元な空間であることが多い。中編『Lost in New York』は、納屋で遊んでいたふたりの少女が、とある本に誘われ、時空を超えた冒険に出る物語だ。ある時本をめくってNYに冒険に出たふたりは、そこで離れ離れになってしまい、再び巡り会えないまま長い月日が経つ。時が経ち老婆になった2人はそれぞれのきっかけで再び時空を超えるための鍵を見つけるのだが、そこで再び彼女たちがたどり着き再会する場所もこの浜辺だ。誰もいない砂浜で、歳をとったふたりは再会し、また少女となって冒険にでる。この海は現実の海ではない。ふたりだけがたどり着いた世界として描かれている。
どんな海でも、はるか先にはどこかの土地がある。だが水平線の先は、映像には映らない。その砂浜の先に海が果てしなく広がっているようで、そして果てしなく海しかないみたいに。だからこの浜辺は異世界に通じる場所として描かれるし、この無限の砂浜にたどり着いたヴァンパイアや幻想の中の少女たちは、どんな現実からも切り離されて生き続けるのだ。
そして、どこでもない異空間である一方、ローランが長年この同じ浜辺でヴァンパイアや幻想世界の住人たちを描いてきたことによって、この海はどこか緩やかに彼の創造する世界全体を繋ぐものにもなっている。同じ浜辺に様々なキャラクターたちが訪れ、そしてその浜辺自体も作品の撮影時期とともに少しずつ変化していくのを見ていると、別の物語とはいえ、何か同じ場所として作品を超えて通じる想像世界のように感じてしまう。ありきたりなことをいえば、まるでこの海からジャン・ローランのすべての幻想が生まれているかのような。
その理由として、ジャン・ローランの未完のまま失われた処女作の存在が大きいはずである。『The Rape of the Vampire』を撮る以前に、彼は1962年に『L'Itinéraire marin』(The Sailor's Journey)という映画を撮影している。(この作品ではマルグリット・デュラスが脚本に参加していて、この作品が完成していれば、ジャン・ローランには単なるヴァンパイア映画のB級映画監督以外の道がひらけていたのだろうと思う。)この作品も彼はディエップの浜辺で撮影していた。撮影途中で資金切れとなり、晩年になって完成させようとしていた(が、ラボにネガを取りに行った数日前にネガは燃やされてしまっていて、この映画は完成することがなかった)、というくらいなので、彼にとっても生涯通してとても大切な作品だったのだと思う。ジャン・ローランの物語が全てこの海でつながっている気がするのは、この未完のまま失われた作品の面影なのかもしれないと思う。長年彼のスタッフをしていた人物はジャン・ローランの死後に作られたドキュメンタリーでこう語っていた。「彼が浜辺を撮り続けたのは、失われた未完成の映画の終わりを別の作品のなかに見出そうとしていたからなのかもしれない。それはすごくロマンチックなことだとじゃない?」私は彼の映画を見ながら、もう誰も見ることのない失われた映画に思いを馳せる。画面上には映らない水平線の向こうに、彼の描いた幻の世界があるのかもしれないというロマン。
今はもう3月28日。私は無事に海を越えて東京に戻ってきて、自分の部屋でこれを書いている。今の東京と先週いたフランスとが同じ時空間に存在することに現実味がなく、想像するのがやっぱり難しい。まるで日本を囲んでいるのが、どこにもたどり着かない海みたいに。 それでも本当は、一番近い海、東京湾から見える水平線の先には、世界はどこまでも続いていることを、想像しなければいけないのだけれど。