かなわない
こばやしのぞみ
興奮するのって難しい。正しくできない。わたしは幼い頃から自分が興奮しているとき、その状態を認識したとき、いつも少し後ろめたい気持ちになった。そしてそのうちに情熱がほとんどなくなり、興奮というものは自分にとって「するもの」ではなく「させるもの」になってしまった。他人をというよりは、自分をむりやり興奮させている。これは間違った興奮だ。醒めた状態の自分が同時に存在したりせず、没入していけるのが正しい興奮。
正しい興奮のためには瞬発力が必要である。これはもう才能の問題だと思う。『山の焚火』の「坊や」にはこの才能がある。耳が聞こえないために自分には理解できないラジオや、動かなくなった芝刈り機を怒りのままに破壊する。虫眼鏡や石積みに熱中する。姉であるベッリを求める。坊やとベッリは「人の道を外れる」が、人の道なんて誰か(この映画で言えば「下の人々」)が決めたものであり、坊やにとってはどうでもいいことだろう。
坊やの家族は坊やみたいには生きられない。本当は勉強を続けて教師になりたかったベッリは、隠れて本を読む。彼女の夢は、最後には完全に断たれてしまう。彼女はおそらく一生山を降りてゆけない。両親にしても同じで、父親は激昂した直後に死ぬことになるし、それを見た母親は、何か言いかけたままショックで倒れる。正しく興奮できるということは、動物のように本能のまま生きられるということだ。山の上ではそういう生き方のできる人間が強い。正しく興奮できる坊やだけが、自分の欲しいものを手にいれることができる。少しでも迷ったり、客観的な視点を持ってしまったりしたら、その時点でもう負け。坊やは保護されているように見えて実はこの家における支配者なのだ。
『山の焚火』には視覚にまつわるさまざまな装置が登場する。望遠鏡や虫眼鏡はもちろん、窓や鏡も、それらを通して何かを見るためのものである。望遠鏡は遠くまで見るため、虫眼鏡は細かく見るため、窓は他者を見るため、鏡は自己を見るための役割を担う。坊やはこれらの装置を単純に視覚的な面白さを捉えるために用い、その役割を一つずつ解体していく。人間の作り上げた価値から離れるという意味で、これもかなり動物的な行為であると感じる。
焚火やランプなどのあかりも、物体を照らしその姿を浮かび上がらせる視覚的な装置である。しかし、先ほど挙げたものに比べて、これらに対する坊やの姿勢はもう少し複雑である。山の上で焚火を見つめるとき、二人きりになってしまった食卓のランプを灯すとき、死んだ両親の横たわるベッドの周りにろうそくを並べるとき、本能的な興奮だけを感じているようには見えない。
坊やの見つめるものが、彼だけのものではないからである。ベッリが同じものを見ている。坊やの興奮は、ベッリと共有されるものになった。興奮する/されるの関係ではなく、ふたりのあいだに一つの興奮があるということ、もしかしたらそれは愛と呼べるものなのかもしれない。