遠くから聴こえる歌
上條葉月
パトリシオ・グスマンの『チリの闘い』を見たのは2016年の秋だった。満員のユーロスペースで。あの映画を観てからずっと、社会主義政権の支持者たちが歌っていた「大丈夫 アジェンデ 私たちがついている」という歌がいつまでも耳にこびりついている。 このドキュメンタリーにはチリの人々が日常生活を送りつつ、自らの手で自分たちの望んだ政治を守っていくのだという興奮が映し出されていて、私はその熱量自体に食らってしまった。自分たちの手で社会を維持するということはこれくらい身をもって戦わなければいけないことなのだと思ったし、そこに映っていた「社会」の存在は今まで日本で生きてきて一切感じたことのないものであり、そしてこの先感じられそうもない気がしてしまった(それ自体が無責任な発言だけれど)。
記憶に残っているのは、映っている人々の興奮だけではなく、映画自体の、現実を変えていくのだという熱気でもある。それをいちばん感じたのは、第3部の存在だ。軍事クーデターがおこり社会主義政権が崩壊するというチリの歴史をすでに知っている私たちにとって、第2部のラストに描かれる政権崩壊の瞬間は、たしかにひとつのクライマックスではある。だが、グスマンはそこで映画を終わらせない。第3部では、社会主義政権下で生まれていた市井の人々や労働組合の小さな動きが描かれる。そこに彼の未来への希望が託されていると感じた。熱狂的な運動が失敗しても、クーデターが起きても、すべてが無に返ってしまったわけではないのだよ、と。政権が変わろうともすでに取り返しのつかないほど、人々のなかに意識の変化が芽生えていて、それはなかったことにはならないのだ、という静かでも強い興奮。ひとつの運動の終焉に絶望するだけでなく、未来を変えていこうとする意思のある映画だと思う。
去年アテネで見たペレイラ・ドス・サントスや、最近見たAndrea Tonacciなど、ブラジルの監督たちの映画にも、そういった独裁政権をめぐる状況や社会の動きを捉えよう、それだけでなく、映画の内側から社会を変えていこうとする熱量があった。地球の裏側で、自分が生まれるより遥か昔に作られた映画なのは分かっていても、そういう興奮に触れると冷静でいられなくなる。
怒ることも興奮することのひとつで、だから怒ることにはものすごく体力がいる。そして怒っている映画は、その怒りに向き合おうとすることにもとても体力がいる。最近、友人が「怒らないひとを信用しにくくなった」と言っていた。わたしは、疲れるし、あんまり怒りたくないと思う。めんどくさいから。だから、ちゃんと怒っているひとや映画の真摯さにぶつかると、後ろめたさを掻き立てられて、動揺する。
『チリの闘い』を観た年は確か夏に選挙があって、わたしは投票に行って、自宅にはテレビがないから家の前の飲み屋で何となく集まって来た友人たちと一緒に選挙速報を見ながら文句を言いつつ酒を飲んだのだった。あの映画を見てからずっと、そういうことじゃダメなんだと思っている。そんなんじゃいつまでも、私たちが胸を張って「歴史は我々のもの」だと言える日は来ない。