呼吸の波紋
住本尚子
興奮した時、脈拍が上がり、心拍数が上昇していく。そしてこの鼓動が誰にも聞こえなくて、自分自身にしか聞こえないこと、それがとても怖い。興奮という喜びにも悲しみにも近しい感情が、自分にはコントロール出来ない未知数な場所にあるから、わたしはまだ手探りにその感情と向き合うしかないのだ。
『ミッドサマー ディレクターズカット版』をこの前自粛明けの映画館で観た。約2ヶ月近く行けなかった映画館を体験する喜びをも上回る怖さが、体内に渦巻いた。それは、主人公のダニーにまつわる家族の悲しみに囚われた音だった。ダニーの泣き声や、苦しくなったときの、ダニーにしきか聞こえないはずの呼吸が私にも聞こえた。どうしようも出来ないその鼓動が私にも乗り移り、ダニーと一緒に泣くしかなかった。
フォークホラーというジャンルであり、観た印象はほかのホラーとは少し違う。Folkには、「民族の」「民間起源的な」という意味がある。と公式サイトの"観た人限定完全解析ページ"により詳しく書いてあるのだけど、その土地で信じられている信仰(精霊信仰、異教信仰)への違和感が怖さとなるもので、その怖さは、ホルガ村の人たちの音楽にも通づるものがある。ハッ、ハッ、という呼吸を使ったコミュニケーション、音楽的要素を交えながら常に息をする事を意識させられるのは、宗教音楽に詳しいジェシカ・ケニーさんによるものらしく、それがまた私の呼吸へと繋がり、自分の呼吸を支配されていくような感覚がまたわたしを一層苦しめていった。
フィリピン映画の『マニラ・バイ・ナイト』を思い出す。目が見えずソープ嬢として働くビーが、恋人だと信じている人に無理やりどこかへ連れて行かれるシーンで、激しく抵抗する。見えないどこかに連れて行かれそうになり、そしてそれが良からぬ所だと察する事ができた時のその激しい声、動作。その先を共に想像して、わたしはまた苦しくなった。
群像劇であるため、登場人物が多くてこんがらがりそうになるけれど、何人とも関係を持っているペドロというタクシー運転手の男をめぐるアデとベイビーの雨の中の言葉のやりとり。男を頼って生きて行こうなんてやめな!自分のことは自分で守りなさい(的な)やりとりも、マニラでギリギリで生きていく瞬間そのもので、この苦しさに溺れないように息をしていく人たちを観ていて、不思議と励まされる自分もいた。
苦しさの先にどうしても明るい未来があると思いたい。そんな希望も、大人達は持つことさえも憚っていく。それでもこの世界で生きていきたいし、諦められない。呼吸もままならないこの世界で、その呼吸を支配する抑圧は、決してなくならないのだとここ最近の出来事で思っている。それでも、同じ空気を吸っている事に変わりはなく、澄んだ空気を自分たちで作っていかなくてはならない。どちらの映画も最後は救われたのか救われていないのかはよく分からないままに終わる。でもその中で、息のできる場所を見つけるしかないという事だけは伝わる。伝わるのだ。伝えなくては。そしてそれは多くの人が持つ感情だから。手を差し伸べるべき時に、お喋りだけしている大人に、わたしはなりたくない。こうして映画を誰かに届けていく人達の苦しみを見過ごす事が、この世で生きていく事だとは到底思えないから。