いも時間
住本尚子
「いも」というテーマを思いついてから、「いも」と言うだけで気持ちがほっこりして、何て良い響きなのだろうと惚れ惚れしていた。「い」の後の、「も」のもったりした響きが、恐らく私をにやつかせてる。しかもそれを12月の年終わり、こぞってテーマに祭り上げるところまでが私のささやかな企てで、意外にもピッタリな気がしている。
いもで最初に浮かんだのは、タル・ベーラ監督の『ニーチェの馬』だった。この映画を「いも」を中心に考えてみたいとずっと思っていた。だって、芋を茹でて、皮をむいて、塩で食べるだけで、しかもそれが何度も何度も繰り返される事が、とても怖かった。いもを食べるという行為が、ただただ繰り返しの一部となり、いもが食べたいという意志も感じられない。無表情で黙々と食べ、手先だけがゆでたての熱さに反応し、ついにはいもを食べ残してしまう。
このコロナ禍で、私は久しぶりにたくさん自炊をした。スーパーに行く事さえ恐ろしく感じていた頃、大量に買い込んでは家でひたすら野菜やお肉やお魚を切って、煮たり、焼いたり、蒸したりした。この繰り返しは毎日が発明のような、実験のような日々となり、外出のままならない日常の息抜きになっていた。まさかこんなに夢中になるとは!食いしん坊だから、いかに美味しく食べるかを考える事は全く苦ではなくて、そうか、今までは時間が無かったから、自分で色々試してみようという発想がごっそりなくなっていたのだ。けれど、数ヶ月が経ち、ある恐怖が襲ってきた。私は自分が食べるものをただひたすらに作り、食べて、その日1日が終わる。もちろん、家では映画を観たりしていたけれど、毎日同じことを繰り返していく事で、ごはんを作る事が当たり前になった瞬間、ある種の労働のような、課せられたもののような気になっていった。お腹が空いたから何かを作らなければならない、そう、作らなければならない!
明日も明後日も明々後日もその先何年も、ご飯を作り、目の前で消えていく。消えるために作る日々。『ニーチェの馬』のいもは、その極限のようにも思えた。消えるものだから、そもそも工夫はいらない。
成瀬巳喜男監督の『めし』では、おい、めしまだか?さぁ腹減った、めしだめしだ!あ〜腹減った、めしにしないか?という言葉が初之輔(上原謙)から繰り返される。妻の三千代(原節子)はお金の心配をしたり、料理、掃除、洗濯と忙しい。そして明日もまた同じ、めしは?と聞かれるだろう。あと何年、めしを作ればいいのか?めし、めし、めし…。
そんな日々に耐えかねて、実家に帰る三千代。あんなにテキパキとしていた家事を、やらなくて済む環境でぐっすり眠る姿に、ゆっくり休んでね、と声をかけたくなる。
実家の食卓にはコロッケが出ていた。妹の夫である信三さんは、うちではコロッケとライスカレーと味噌汁が代わりばんこに出るだけ!と言うけれど、立派だよね!コロッケを作るなんて、時間も労力もかかるのだから!妹が腕を振るったコロッケはきっと美味しかっただろうなぁ。手の込んだ料理は、もう見ただけで幸せな気持ちになる。作ってくれた人が、食べてもらいたい人の心を想像して作っているような気がするから。
コロッケは大変そうだから作らなかったけれど、ジャガイモ料理は沢山作った!茹でて潰して、小麦粉と混ぜて、丸めて焼くと、もっちりとしたじゃがいももちになるし、クリームチーズと塩と胡椒を和えるだけで、白ワインにあうようなポテトサラダも出来る。肉じゃがやガーリック炒めもチーズ焼きも美味しかった。そしてとにかくいもはお腹いっぱいになる!お腹いっぱいになった時、わたしはじゃがいもで出来ている気がしたよ!自炊をして思ったのは、とにかくこの自分という身体が、食べたもので成り立っているということ。自炊をすることで、私は自分自身のことをちゃんと考えるきっかけにもなったし、多分、自分の心と体のために時間を使うということ自体が大切なように思えた。
三千代と初之輔の再会は非常にさらっとしたものだったけれど、いつもと違う場所にいて、いつもしない会話をしていた。二人にはその時間が必要だったんだと思った。『ニーチェの馬』に出てくる親子も、家の外でもいいから、焼き芋とかしてさ、会話したら良かったのかも。(風が強すぎて無理か?)塩しかないのなら、味付けは変えることができないかもしれないけれど、何か工夫をしないと、人生があっという間に単調に終わってしまう気がする。外に出てご飯を食べることも気を遣う今だけど、ピクニックでもいいから、できる範囲内で、息抜きをしようと思った。そうしないと、私はいもをただ茹でて食べるだけの日々になりそうだからね!