そういえば、あるんだった
住本尚子
自粛。自粛。自ら粛々と生きていく日々に、いかに沢山の人と関わって生きていたかを思い知るようになった。それはスーパーで買い物をしたり、電車に乗っていても、あれは関わっていたのだと思い知る感じだ。どんなに粛々としていても、そよそよと風はマスクを通り抜けてわたしに吹いてくるし、花粉は目を疼かせる。痒くて不意に顔を触ってしまい、色んなものを、一瞬で恨んだりしている。
そういえば、海ってあるんだっけ?自粛で家に篭り続けていると、忘れがちなことが沢山あって、海がこの同じ世界にあることなんて頭からすっこりと抜け落ちていた。
海ってそういえば、目まぐるしく表情を変えてくるよね。だけどそれが圧倒的過ぎて、よく知らないかも。
気分屋のようでおおらかでいて、やっぱりその掴めなさが、怖い。海水浴に行って浮かれている人は、本当に、度胸がある。わたしなんか、楽しんではいるけれど、泳ぐのも自信が無いし、足がつかないことへの不安とかもあるし、心の奥底では、完全に死を意識しているから、むしろ生に向き合い過ぎて神経が高ぶっている気がする。怖すぎるから、砂浜の砂で人間とか作って遊んでいると、こんなところまで来てそんな内向的な遊びをしているね、と指摘されて、地面の上の重力の絶対的安心感ってすごいな!と思ったりもした。これだと地面の話をしてしまいそう。話を海に戻そう。
そんな海の持つ表情は、沢山の映画に映っていて、カッコ良くって憧れる!画面の中に収まっていてくれて、本当に嬉しい。怖い人でも、絶対に自分とは関わらないと知っていると安心できるみたいな感覚?無責任?スクリーンがわたしにとっての防波堤みたいな感じ。だから、どんなに怖くても大丈夫。
『エヴォリューション』という、ルシール・アザリロヴィック監督の映画。美しい少年と美しい女性しかいない島のお話。その島は海に囲まれていているから、そんな簡単にどこかに行けたりはしない。島を囲う海はとてもキレイ。波が岩肌を打ちつけたり、暗闇にゆらゆら揺れたりする。その揺れに沿うみたいに、ゆらゆらと私たちの性別に課せられた役割みたいなものを問われる。女性は子供を産む人という価値感。詳しく出来事は説明されないのに、ひとつひとつの出来事や所作が美しいから、脳裏に焼き付いて、夜の海の水面に映ったような映画。極端な世界と海はピッタリで、わたしはそれが怖いし、でも今わたしが生活している日々も極端といえば極端だし。まぁ、一緒なのかもしれない。生活は怖いもの。
『リヴァイアサン』という映画。ルーシャン・キャステーヌ=テイラーとヴェレナ・パラヴェル監督による2012年のアメリカ合衆国・フランス・イギリス合作のドキュメンタリー映画。ずっと漁船と海、漁師、魚といった感じ!ずっと海面すれすれで溺れる映画。その波の激しさや魚網の重量感と、魚の血生臭さが、観ていて生命力を感じるから猛烈にカッコイイ!!海は生きているんだった、と思い出す。もともとそこにあって、ずっとあり続けるかも分からない。そうだ、地球も生き物なんだったよね。って、87分の作品で一気に思い出すことが出来た。
『さよなら、退屈なレオニー』はセバスチャン・ピロット監督作品。田舎の女の子が退屈そうに過ごしている。カナダのケベックという街は、海、いや、川?のみえる街みたいで、わたしは地元の瀬戸内海を思い出す。わたしの実家の近くにも、海、いや、川?みたいに海がある。主人公のレオニーはこの街の魅力は幼少期の頃だけあったみたいで、今は好きではないみたいだった。わたしはそんな気持ちを通り越して、今は眺める地元の海が1番好き。遠くにある大きな水面はただただ眺めたいだけのものなんだ。その時間は贅沢だよ、とレオニーに伝えたかった。
思い出すとキリがないね。海との思い出がない人もいるかもしれないけれど。
そういえば、ソフィ・カルが初めて海をみた人たちの表情を捉える『海を見る』という作品を、渋谷のスクランブル交差点で見たことがあった。一緒に嬉しくなっちゃって、笑ったり泣いたりする人々を見て、海って存在するだけでこんな表情を人にさせることが出来るんだって思った。津波のことも思い出す。震災の時、全てを飲み込んでいった。あの時テレビを見つめていた沢山の人々の表情を思い浮かべた。
今、わたしの脳みその中の海は、記憶で作られている。記憶ででしか物事をかたち作れなくなったら悲しいな。外に出てはいけないと言われると、外が脳の中で作られていく。外を自由に歩けるようになったら、答え合わせをしよう。今はただ、悲しいという一瞬と、雑貨みたいな海の記憶がとなり合わせにある。